人生ってさ、たまに「これ、アンインストールできたら楽じゃね?」って瞬間ない?
別に本気で消えたいわけじゃないんだけど。
信号待ちで「今、車が突っ込んできたら終わりかな」とか考える。
しかもその考えに、ちょっとワクワクしてる自分がいる。
鬱だの厨二だの言われるけど、正直みんな、どこかでやってると思う。
で、ここからが本題。
私は「死にたい」と言うけれど、実際に求めているのは
“終わりのプレビュー”なんじゃないかと思ってる。
終わりを想像することで、逆に「生きてる実感」が湧く。
危ういけど、心理的にはわりと“あるある”なことだ。
科学的にも、死について考えるのは人間特有の悩みだとされている。
「Terror Management Theory(恐怖管理理論)」によると、
“自分はいつか死ぬ”と知りつつ“生き延びたい”と思う。
この矛盾こそが、人間の行動や信念を形づくる。
死の意識があるからこそ、人は自尊心を守り、文化や信念にしがみつく。
つまり「終わりを想像すること」自体が、逆説的に“生きるためのメーター”なんだ。
さらに脳の話をすれば、
死に近い経験をすると脳内で異常な同期活動が起きるらしい(いわゆる「人生が走馬灯のように」系の現象)。
アドレナリンが出て覚醒度が上がると、感覚が研ぎ澄まされて“リアリティの濃度”が増す。
だから信号待ちで、ほんの一瞬「死の香り」を嗅ぐだけで、「今、生きてる!」って感じる。
要は、脳がショートトリップしてるだけなんだよね。健康的かは別として。
だから私は、「死を想像すること」は人間として自然な営みだと思う。
「死の想像」は人生のスパイスであって、必ずしも毒じゃない。
ただ、スパイスを入れすぎると、料理そのものが終わる。
最後に。
私は信号待ちで「もし今轢かれたら保険金いくらかな」って考えて、一瞬で現実に戻るタイプ。
そんなケチな生き方だからこそ、まだ終われないのかもしれない。
お金の計算で目が覚めるなんて、なんとも現世的な話だ。皮肉だよね。


