昔、数年間の引きこもり経験の後に、社会復帰をした人がこんなことを言っていた。
「自分が引きこもっていた時期は、無駄な時間だった。
しかし、その経験を外で発信すると『引きこもったのは意味のある時間だったんだよ』と、
私の経験にポジティブな意味づけをしようとする人が多くて嫌なんだ」
そして、こうも言っていた。
「何でもかんでも、ポジティブな結果に結びつかなければ、経験として認めてはいけないのだろうか?」
私はこの言葉を聞いたとき、ハッとさせられた。
なぜ、人は「物事の結果はポジティブでなければならない」という考えに縛られてしまうのだろう。
おそらくは、聴き手が、相手の経験を脳内で「疑似体験」しているからだと私は考えた。
他人の不幸な話を聞いたとき、何かしらの救いや落としどころを見つけなければ、自分自身の感情までマイナスに引っ張られてしまう。
聞き手はそれを恐れる結果、最終的に「あれがあったから良かったんだ」という形で、自分の心の中で昇華させたいのではないだろうか。
小説や映画を見たとき、登場人物に自分を投影してしまうのはよくあることだ。
今回の彼の話でいえば、聞き手は耳から「彼の人生」という名の物語を、無意識のうちに自身を投影させていたのだと思う。
しかし、その物語の結末は
「数年間の不快な引きこもり体験の結果、何も得るものはなく、ただただ苦痛な時間でした。」というものだ。
話を聞いて感情移入している側からすると、
「その我慢の果てに得たものは?」
「報われてほしい、無駄な時間であってほしくない」と、
どうしても願ってしまう。
そういった感情を投影させた結果として飛び出したのが、
「引きこもったのも意味のある時間だったんだよ」という発言だったのではないだろうか。
だから、彼がその言葉を「嫌だ」と感じた理由は、きっとこういうことだ。
聞き手は、彼の感情を受け止めたわけではない。
彼の物語に自分を投影し、思い通りの(ポジティブな)結末にならなかったからこそ、彼自身の「無駄だった」という結論を無視して、都合の良い解釈を押し付けてきたのだ。
ある意味、それは聞き手は彼自身と向き合ったのではなく、「自分自身の気持ちの保身」に走っただけである。
その無意識のエゴを敏感に感じ取ったからこそ、不快感を覚えたのだろう。
相手の上手くいかなかった人生も誤魔化さず、
彼を人格を作り上げた出来事の一つとして受け入れる事も、他者受容の一つの形なんだろうなと感じたので記事にしてみました。

