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つぶやき日々の出来事

自身の考えは「不正解」の原因は「生存のための適応」を最優先しているから

つぶやき

自分の発言は、すべて間違っているのではないか。 ふと、そう思うことがある。

定期的に過去の記事を読み返すのだが、そのたびに「こいつは何を言っているんだ?」と理解に苦しむのだ。

書いてあるのはその当時の感情で、今の気持ちとは違う。
それは分かっている。

けれど、どれも自分の心からの発言であるはずなのに、なぜか「間違った答え」のように感じてしまうのだ。

そもそも答えなんてないものに、正解・不正解を見出そうとする心理自体、自分でもよく分からない。

分からないのに、私はいつも無意識のうちに謎の基準を作り出し、その時の状況によって「ありか、なしか」を決めてしまっている。

この「無意識に決めている」というのが、怖いところだ。

ふと思った。
これは「自分の考え」という軸で動いていないからではないか、と。

自分では意思を持って動いているつもりだが、その正体は「自分の感情判断」ではなく、「環境に適応して生存するため」の正解・不正解を選び取っているだけなのではないか。

生存本能としての適応だとしたら、その時々の環境によって考えや思考がコロコロ変わるのも頷ける。

環境が変われば適応の仕方も変わるのだから、過去の自分が間違いに見えるのも当然だ。


そういえば以前、「他者に正解を求めるなら、聞かないほうが良い」と言われたことを思い出した。

そもそも、自分にとっての正解とはなんだろう。 自分が腑に落ちる答えをもらえた時か、納得できた時か。少なくとも、共感を求めているわけではないのは確かだ。

ひとつ分かるのは、私は「人を介さないと自分の気持ちが理解できない」ということ。

おそらく私は、相手を「自分の鏡」として見ているのだと思う。

だから「他者に答えを求める」という行動も、実は相手の意見そのものが欲しいわけではない。

「相手にぶつけた時に、自分がどう感じるか」という反響データを知りたくて行っているのだろう。

自分一人では、自分の姿を認識できない。
自分だけで決断できるのは、よほど追い詰められている時だけ。

ものすごく大きな感情に襲われない限り、自分の気持ちが分からない時すらある。

こうした理由から、私の中には「環境への適応基準」としての無意識の正解が存在しているのかもしれない。

だがそうなると、次は「じゃあ、なんで自分の気持ちが分からないんだろう」という問題が浮上してくる。

今の私には、確固たる自分の気持ちはあまり存在していない。

けれど、「状況に対するジャッジ(枠)」だけは自分の中で厳密に決まっている。
その厳しさゆえに、「無意識の正解・不正解」を生み出し続けているのかもしれない。

確かに、この記事を書いている今もそうだ。
外部との深掘りの結果出てきたものの中から、「正解」を見つけて文章に組み込んでいる。

そう考えると、私の中にある感情は、自分が思っている以上に理解されておらず、また育ってもいないのかもしれない。

感情的になりがちな私の行動は、「感情」という名のもう一人の自分のあやし方が分からないがゆえの、爆発なのかもしれない。

だとしたら、それは薬でどうこうできるものではないし、むしろ薬で抑え込んではいけないものなのかもしれない、と思った。

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