私は、いつもニコニコしていて「優しい」と言われている人がふとした瞬間に見せる、無慈悲な表情や行動があまり好きではない。
好き嫌いという次元を通り越して「怖い」
なぜ、その冷徹さが「怖い」のか。
なぜこれほどまでに恐怖を感じるのか。
それはおそらく、自分自身の中にも同じような一面があり、相手のその行動の「本心」が理解できてしまうからだと思う。
その本心の正体は、純粋な「損得」だ。
この人は自分にとって使えるか、使えないか。有利になるのか、ならないのか。
はたまた、不利益を与える存在なのか。
相手を「一人の人間」としてではなく、「自分の欲求を埋めるための道具」としてしか見ていない部分を垣間見たとき、私はたまらなく恐ろしくなる。
厄介なのは、こうした行動をとる人の多くが「無意識」であるということだ。
自分が敏感に察知してしまうだけかもしれないが、一瞬だけ変わる目つき、口調、声色。
その一瞬で、相手を「振り分ける審判」が行われている気がする。
場合によっては「不要判定」食らう時もある。
そんな自分の存在を、嫌というほど感じてしまうのだ。
そして何より恐ろしいのは、「私自身も、相手に対して同じような感情を抱くことがある」という動かしがたい事実だ。
私たちは、もっと「人」そのものを見なければいけないのかもしれない。
生きるため、世を渡る為には行わなければいけない作業ではある。
けれど、社会の荒波に揉まれていると、それが過剰になっていき、本来人間として大切だったはずのものがゴリゴリと削られていく。
そして、もともと持っていたはずの「良性」を手放していかなければ、この人間社会を渡り歩いていけない。
それは電脳空間で存在するAIと何が違うんだろう。
残酷で悲しい事実に、少し泣けてきた。
そして、自分自身もすでにそのような生き方にどっぷりと両足を突っ込んでいることに気づき、震える。
「これではいけない」と、自分自身の在り方を強く顧みた瞬間だった。

