私はこれまで、その場の環境や状況で「劣等生」や「劣っている」と言われる人に対して、良い感情を抱くことができなかった。
権力を持つ者や、大勢の人が「あの人はダメだ」と言えば、その環境の空気に呑まれ、私も相手に「ダメ」の烙印を押してしまっていた。
しかしここ数年。
環境の変化や自己との対話を通して、私はあっという間に、今まで「見下してきていた側」の存在になってしまった。
婚活には失敗し、会社では窓際社員になり、友人もおらず、実家に戻った。
さらに自分自身を見つめ直す中で、発達障害があることも知った。
今の私に残されているのは、中途半端な能力たちと、異常なほどに高いプライドだけだ。
以前の私なら、この事実にただ悲観の声をあげ、自分を憐れみ、その悲劇に酔うことしかできなかっただろう。
しかし、今の私には現実を見据える力がある。
ここまで落ちたからこそ、はっきりと分かったことがあったのだ。
それは、「私が見下してきていた人々は、自分の中にある目を覆いたくなる側面そのものであった」という事実だ。
「私の欠点や見たくない部分を、あなたの姿として目の前に見せつけないでほしい。不快にさせないでほしい」
見下すという行為の裏には、そんな感情が潜んでいた。
「あの人はああいう人だよね」と切り捨てることで、自分とは違うと思いたかっただけ。
それはただの防衛本能だったのだと、身をもって実感した。
「相手は自分の鏡」というのは、まさにこういうことを指すのだろう。
相手の存在を通して、本当は自分が恐れていること、うらやんでいること、あるいは無意識に我慢していることが刺激され、それが「不快感」として表に出ていただけだったのだ。
きっとこれからも、不快な気分になる相手は現れるだろう。
今までは、自分の本当の感情を見ないふりをするための「不快」だった。
しかしこれからは、「この人の何が自分を不快にさせるのか?」という思考に変換していきたい。
感情の裏にある自分の本心に向き合い、素直になっていかなければならないと強く感じている。
自分の弱さや醜さを認めることは、正直、敗北感を伴う。
しかしそれは、自分自身が勝手に作り上げた「虚像」に対する敗北でしかないのだ。
こういう醜い自分も、まぎれもない自分自身なのだと認めること。
それこそが、本当の意味での「成長」なのだと思う。

