前回の記事では、映画『サブスタンス』の視覚的な衝撃や恐怖について触れました。
後編となる今回は、この作品が内包する「女性性の搾取」や「自己肯定」、そしてあの衝撃的なラストシーンの解釈について深掘りしていきたいと思います。
※引き続きネタバレ全開です。
「女の価値」とルッキズムの搾取構造
この映画の根底には、男性社会による女性の肉体搾取というテーマが色濃く流れています。 「若さと美貌」があるうちは持て囃され、少しでも欠陥が出れば切り捨てられる残酷な構造です。
作中で、化け物のような姿になったエリザベスが、舞台上で身体の一部(乳房)をボトリと落とすシーンがありました。 どんなに異形になっても「女の象徴」を見せつけてしまうあの姿には、「そこ(性的な魅力)にしか価値がない」と思い込まされている悲哀を感じずにはいられません。
そして、この「搾取」の構造は、スーがエリザベスの膿んだ背中から無理やり脊髄液を抽出し続ける行為にも重なります。自分の母体(=未来の自分)を傷つけてでも、「今」の輝きを搾取するのです。
さらに、前回の記事でも触れた「注射器」の描写について、私はある種のグロテスクな連想をしてしまいました。 それは、注射器を「男性器」、刺される身体を「女性器」に見立てたメタファーではないか、という視点です。
母体であるエリザベスの身体がどれほど膿んでボロボロになっても、若さを維持するために太い針を躊躇なく挿入し続ける。 その行為は、痛々しい医療行為を超えて、女性の肉体をモノとして扱い搾取し続ける構造そのものを、性的な暗喩を含んで描いているように見えてなりませんでした。
これらは現代社会における過度なルッキズムや、外見至上主義への強烈な皮肉であり、批判でもあるのでしょう。
私自身、自分の容姿や性別を過剰に気にするタイプではありません。それでも、「若さ」や「性別」という恩恵を受けてきた自覚はあります。だからこそ、「年齢を重ねることで誰からも必要とされなくなるのではないか」という恐怖には、どうしても共感してしまうのです。
分身との殺し合い、その虚しさ
「エリザベス」と「スー」。二人は本来、同一人物です。
しかし、自己肯定感の低い彼女たちは、常に外部からの承認を求め続けます。
「誰よりも持っていないと気が済まない。でも、持っていても満たされない」
若さを失ったエリザベスは、自分の分身であるスーを憎みながらも、スーが持つ「若さと美貌」を手放すことができません。
結果として、スー(若さ)がエリザベス(老い)を殺害してしまうシーンは、究極の自己否定の表現だと感じました。
「自分自身を殺す」ことでしか生き残れない。
あのシーンのスーの表情からは、解放感や達成感などは微塵も感じられず、ただただ虚無感が漂っていました。観ているこちらの自信のなさや心の闇までえぐられるようで、本当に胸が痛くなる名シーンです。
ラストシーンの解釈:モンストロ・エリザスーの「幸福」
しかし、最後に登場した「モンストロ・エリザスー」だけは違いました。
見た目は完全なモンスター。しかし、彼女は自分の姿に絶望して泣き崩れることはありません。
それどころか、鏡の前で丁寧に服を着て、アクセサリーを付けて、自分を慈しむように準備をします。
あの奇妙で滑稽なシーン。 観客はドン引きしつつも笑ってしまう場面ですが、当の本人だけは至って大真面目に、「この姿の自分」を受け入れているように見えたのです。
最終的に彼女は衆人環視の中で拒絶されますが、不思議と彼女自身はずっと幸せそうでした。
全てを持っていた頃のエリザベスやスーはずっと切羽詰まっていたのに、全てを失って怪物になった彼女だけが満足している。
あのラストは、「自分が良いと思ったから、それでいく」という身勝手さの果てにたどり着いた、彼女なりの「自己受容の境地」だったのかもしれません。 そう考えると、バッドエンドに見えて、実は彼女にとってはこれ以上ない「グッドエンディング」だったのではないか……そんな風にしみじみと感じました。
最後に:デミ・ムーアの凄み
最後に、主演デミ・ムーアの演技について触れずにはいられません。 『ゴースト/ニューヨークの幻』の頃の可憐さとはまた違う、鬼気迫る表現力。
自身の老いや美醜さえも武器にして演じ切る姿には、「この役は彼女にしかできない」と思わせる凄みがありました。
男性が観れば「承認欲求モンスターの暴走劇」としてホラー映画に映るかもしれません。
しかし、女性、特に年齢や容姿の呪縛を感じたことがある人には、心に深く刺さる(そして物理的にも痛い)傑作です。
個人的な評価は120点!
ただし、あまりにグロくて心臓に悪いので、もう二度と観たくはありません(笑)
まだ観ていない勇気ある方は、ぜひ一度、この衝撃を目撃してください。



