私はあまり、止まることが上手ではない。
常に何かを学び、作り、前に進むことで、自分の存在意義を後付けしようと必死だからだ。
社会の「普通」や「常識」という枠に収まるためのチケットを手に入れようと、必死に自分へ付加価値をつけようと動いていた。
けれど、積み上げてきたものをふと振り返ったとき、そこに出来上がった「意味」は、最初に思い描いていたものとは違う形をしていた。
最初は他者からの承認や賞賛を求めて始めたはずだった。
しかし、今も私の中に残っているのは、経験を通して得られた「予期せぬ深い自己理解」だった。
社会からのチケットを求めて必死に動いてきた結果。
私は「他人の評価の無意味さ」を感じた。
世間の目や常識なんてものは、所詮小さな箱の中の評価でしかない。
そんなものに一喜一憂したところで、環境が変われば、あるいは会社から求められる能力が変われば、私の価値は一瞬で「0」になる。
他人の物差しで測られる自分には、最初から大した価値などなかったのだ。
結局のところ、積み上げてきた経験や知識は、他人に認められるためではなく、「自分自身をどう評価するか」に繋がっていた。
そこに気づいたとき、私の中の動機は静かに変化した。
生きているだけでは意味がないから、何かを積み重ねる。
それは、誰かに存在を許してもらうための儀式ではなく、自分自身のために意味を作っていく作業だ。
学ぶこと、作ること、前に進むこと。
そのプロセス自体が、他人の評価という小さな箱を抜け出し、自分を形作っていく手段の一つだった。
他人の承認という「無価値なもの」を追い求めて動いた結果、皮肉にも自分軸という「最も価値あるもの」に辿り着いたのだ。
これからも、私は動くことを続けるだろう。
しかし、その理由は以前とは違う。
承認を求めるのではなく、自分自身で在り続けるための選択だ。

