先日、誕生日を迎えた。
ありがたいことにプレゼントをいただき、周囲からは「おめでとう」の言葉が飛ぶ。
本来なら幸福の絶頂にいるはずの場面で、どういうわけか、私の心境は少しも穏やかではなかった。
かつて私は、自分のブログに「誕生日があまり好きじゃない」と書いたことがある。
その時は、望んでもいないプレゼントをやり取りする「義務的な文化」が肌に合わないのだと思っていた。
けれど今回、その文化を真正面から受け止めてみて、違和感の正体がようやく掴めた。
私が嫌だったのは、プレゼントそのものではない。
「意図せず、場の中心に立たされてしまうこと」それ自体が怖かったのだ。
例えば、オフィスのデスクで誰かに祝われる瞬間を想像してみてほしい。
当然、そこが話題の中心になる。
けれどその場には、私にプレゼントを渡さない人もいれば、そもそも私のことを快く思っていない人だっている。
お祝いの輪が盛り上がれば盛り上がるほど、その外側にいる人の冷ややかな視線が刺さる。
「うるさいな」と悪態をつかれるかもしれない。
私の存在そのものが、誰かの集中を乱すノイズになっているのではないか。
そんな可能性が頭をよぎった瞬間、私は周囲の目を異常なまでに気にしている自分に絶望する。
祝ってくれる人と、それを疎ましく思う人。
片方は私の誕生を祝福し、片方はその事象に辟易している。
その「感情の二分化」が、どうしようもなく気持ち悪いのだ。
結局のところ、私は自分が中心になって場が動くこと、つまり「制御不能な空気」が生まれることが怖いのだと思う。
自分が原因で、誰かに「不快」というスイッチを押させたくない。
だからこそ、空気を乱さないように、目立たないように、細心の注意を払って自分を制御しようとする。
「空気を乱さないように」と必死に気を配る。
それはある種の優しさかもしれないが、同時に、あまりに肥大化した自意識の檻でもある。
自分を祝ってくれる善意の裏側で、誰かの不機嫌を勝手に捏造しては、勝手に一人で疲弊している。
「なんて難儀な性格だろう」と苦笑いしながら、今日も私は、なるべく平穏な、色のない景色の中に紛れ込もうとするのだ。

